HISTORYMINIの歴史

MINIの誕生

MINIの誕生

ミニの生い立ちは、1956年のスエズ動乱に起因する、ヨーロッパ各国の石油事情悪化にあった。石油入手が困難となれば、大型車は無論のこと、小型車の販売も厳しくなるであろうと、イギリスの大自動車メーカーであるBMCは予測し、それまでの小型車よりもさらにコンパクトなモデルの開発を命じた。BMCとは、ブリティッシュ・モーター・コーポレーションの略。モーリス、MG、ウーズレー、ライレーから成るナッフィールド・グループに1952年、オースティンが合併して形成されたイギリス自動車メーカーの大連合である。

この新しい小型車開発計画にあたってBMCは、元モーリスの設計者で、BMC形成とともにスポーツカーメーカーのアルヴィス社に移っていたアレック・イシゴニスを呼び戻す。イシゴニスは、連合組織ゆえの部品共有化などを嫌ってモーリスを辞したのである。しかし、BMCの新プロジェクトは、イシゴニスが自らのアイディアをフルに発揮できる体制となっていた。全くの白紙から設計できたのである。だが、イシゴニスに与えられた要求は、たいへん厳しいものであった。

それは、開発期間が1年間、それから生産化するまでの期間も1年間という、一つのモデルを新規に作り上げるには、あまりに短い期間しか与えられなかったからである。しかしながら、開発期間の短さゆえに、突発的なアイディアやユニークな仕掛けが盛り込まれているから面白い。

まずはエンジン。とりあえず手持ちのエンジンを用いなければならないという制限のもと、イシゴニスは”Aタイプ”と呼ばれるコンヴェンショナルなパワーユニットを選択する。848cc直列4気筒OHVユニットは、ミニ以前の小型車、オースティンA35に積まれていたものと同タイプである。イシゴニスが天才設計者と呼ばれる由縁は、この”Aタイプ”ユニットを、フロントに横置きにして、しかもフロントを駆動させるFWDを採用したことである。

当時、ドイツやイタリアの小型車といえば、リアエンジンが全盛であった。もちろん、これはスペースユーティリティと、ステアリングと動力を一緒にしにくいというメカニズム上のことを考えてのことだが、後発になるイシゴニスは、それらとは全く異なる選択をしたのである。しかも、コンパクト化のために、エンジンとギアボックスを同じオイルで潤滑させるといったアイディアも、全く独創的なものだった。それだけではない。足回りには、ラバーコーン式というゴムの反力を利用した単純明快なサスペンションを採用したり、室内空間を拡げるために、10インチという小径タイヤの使用やドア内側を物入れにするといったことも行なっていたのである。また、のちのヴァリエーション展開を考えて、パワーユニットとサスペンションは、前後共サブフレームに組み付けた状態でボディに取り付けられた。これはサブフレームを組み付けられる設計にさえなっていれば、どんなボディでもパワートレインがカセットよろしく簡単に載せられることを狙ったもの。事実、メーカー自身の様々なボディのほかにも、ミニマーコスやユニパワーGTといった、ミニベースのスポーツカーがつくられているのは、この特徴の恩恵というものだ。

販売には、BMCのオースティンとモーリスという2つのブランドを用いた。オースティン版の名は、かつての名車に因んだオースティン・セブン。モーリス版は、イシゴニスが設計して大ヒットとなったモーリス・マイナーにあやかって、モーリス・ミニ・マイナーと命名された。それぞれ、フロント・グリルやバッジ類を変えただけで、中身は同一であったが、この別商品のように思わせる”バッジ・エンジニアリング”は、成功を収めた。

1959年8月にミニは販売を開始する。その革命的な設計は、保守的な人々を大いに戸惑わせて、当初は苦戦したものの、ミニの合理性は間もなく皆の共感することとなり、好調な販売を示してゆくのである。

MINIの誕生
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